中津市のご紹介

中津市は大分県北部に位置し、山国川を挟んで福岡県と隣接しています。2014年2月現在の人口は85,630人で、大分県第3位の県北中核都市です。市木はナノミ、市花はキクです。


中津市北部は周防灘に面し漁業が盛んで、耶馬溪八面山麓から山国川流域にかけて県内最大規模の中津平野を有しています。
南部の本耶馬渓・耶馬溪・山国はほとんどが山間部であり、奇山の多い景勝地です。

古代には七つの郷があり、条里制がしかれ中津平野の開拓が行われていたことが伺い知れます。
官道下毛駅もおかれていました。

 
中津城

中津城(奥平家歴史資料館)

現在の中津城は旧藩主奥平家の子孫が建造したもので、実際の中津城に天守があったかどうかは明確ではありません。ただ黒田孝高の手簡に「天守に銭を積んで蓄えた」とあり、築城の際には天守があった可能性もあります。

1587年に黒田官兵衛孝高(出家後、如水と号する)が豊臣秀吉から豊前6郡(京都・築城・仲津・上毛・下毛・宇佐)の16万石と馬ヶ岳城(福岡県行橋市)を与えられ、その後拠点を山国川河口部に移し中津城を築城しました。以降中津は城下町として栄えていきます。

城主は後に細川氏・小笠原氏を経て、1717年(享保2年)に奥平氏が入封し明治維新を迎えました。

明治初期には福澤諭吉、小幡篤次郎、中上川彦次郎他多くの偉人を輩出しました。

福澤旧居

福澤旧居

 

 


明治 4年(1870) 4月 中津県が成立
  11月 小倉県に統合される
明治 9年(1875) 4月 福岡県に統合される
  8月 福岡県から大分県に移管される
明治22年(1889) 4月 町村制実施 下毛郡中津町となる
明治29年(1896) 4月 小祝村を福岡県から中津側に編入
大正14年(1925) 4月 豊田村・大江村を併合
昭和 4年(1929) 4月 小楠村を併合、中津市の誕生
昭和18年(1942) 8月 鶴居・大幡・如水の3村を併合
昭和26年(1951) 4月 三保村を併合
昭和29年(1954) 3月 三光村発足
  10月 和田村を併合
昭和30年(1955) 2月 今津村を併合
昭和33年(1958) 4月 山国町発足
昭和34年(1959) 11月 本耶馬渓町発足
昭和40年(1965) 4月 耶馬溪町発足
平成17年(2005) 3月 三光村・本耶馬渓町・耶馬溪町・山国町を併合
 

中津の伝承など

合元寺の赤壁のお話

合元寺

合元寺の赤壁

黒田氏の中津転封により、豊前6郡のうちの京都・築城を支配していた豊前宇都宮(城井)氏は今治(愛媛県)に所替を命ぜられ、これを不服とした宇都宮氏を筆頭に豪族が蜂起、黒田氏に対し反乱を起こしました。


宇都宮氏以外の豪族は鎮圧され、黒田孝高の嫡子長政と宇都宮鎮房の娘千代姫の結婚と宇都宮氏の領地の保証を条件に和解することになりました。祝宴のため宇都宮鎮房が千代姫と従者1名を連れ中津城に入りますが、鎮房と従者は殺害され千代姫は山国川の河原で処刑されてしまいます。


寺町の合元寺に待機していた宇都宮氏の家来は黒田氏の兵により全員殺害されました。
合元寺の壁はもともとは白かったのですが、宇都宮氏の家来の血で赤く染まりました。壁を何度白く塗りなおしても赤くなってしまうので以後合元寺の壁は赤く塗られるようになったということです。

 

鶴市のお話

鶴市花傘鉾大祭

鶴市花傘鉾祭

「鶴市根元記」によると、保延元年(1135年)、当時一帯を支配していた七地頭の一人、湯屋弾正基信が山国川の氾濫を治める為、大井手(堰)に人柱を立てることを提案しました。七地頭は皆自らが人柱になることを譲らず、各自の袴を山国川に流して最初に沈んだ袴の主を人柱とすることにしました。結果、湯屋弾正基信の袴が一番に沈み、人柱が決まりました。

基信が覚悟を決めて身を清めていると、湯屋家累代の家臣、古野家の娘お鶴とその子市太郎が基信の身代わりになる事を申し出ました。最初は断った基信でしたが、お鶴親子の懇願をついに承諾し、自らの妻子として二人を8月15日に人柱に立てることにしました。

当日お鶴は自らを八幡神の化身と名乗り、井手の神体となるべく基信の妻となったと託宣しました。お鶴と市太郎が大井手に築き込められた直後、河中から金色の光が現れて宇佐八幡宮へ飛んでいきました。人々はお鶴は本当に八幡神の化身であったと二人の御霊を井手の神体として鶴市八幡宮に祀り、大井手を完成させました。

現在でも毎年8月にお鶴と市太郎の慰霊と豊作祈願として鶴市花傘鉾神事が行われています。

 

青の洞門

青の洞門

青の洞門

諸国巡礼の旅の途中に耶馬渓へ立ち寄った禅海和尚は、極めて危険な難所であった「鎖渡し(断崖絶壁の岩山に鎖を渡しただけの狭い道)」で人馬が命を落とすのを見て、慈悲心から享保20年(1735)に洞門開削の大誓願を興したと伝えられています。
禅海和尚は托鉢勧進によって資金を集め、雇った石工たちとともにノミと鎚だけで掘り続け、30年余り経った明和元年(1764)、全長342m(うちトンネル部分は144m)の洞門が完成しました。

菊池寛の小説「恩讐の彼方に」のモデルになりました。小説では、主人公の市九郎(了海)は過去に殺人を犯しその子実之助に親の仇と狙われますが、最後は了海の慈悲の心にうたれ実之助は仇討をあきらめるというドラマチックなお話になっています。仇討のお話は小説として脚色された部分で実際にはありません。